共同体感覚

 先日購入したアドラーの書物を久々に読み進めた。




 普段は読書をする気にもなれない。あれだけ好きであった工業製品、それは自動車(たぶん初めて書いた)と呼ばれる物なのだが、それに関することを考えるのも非常に苦痛を伴うようになった。なぜか?。燃え尽きたのかもしれない。形あるものはいつか壊れるのだ。まだ車は形をなしているが、ワタクシの中では「もう無理なのでは?」との気持ちが大きくなって、考えることに嫌気を感じるのだと思う。
 ワタクシにとって車はシンボリックでもあった。ワタクシと言えば車。車と言えばワタクシ。それだけ情熱を傾けた。しかし情熱はいつまでも続くとは限らない。いや、それは少し異なるかもしれぬ。
 壊れたとて部品があればなんとかなるが、部品の入手が非常に難しくなってしまった。考えてみれば、依存の対象でもあったのだろう。それが揺らいでいるのである。あとどれだけ乗れるのか…。どちらにしても疲れてしまったことに代わりはない。

 話が飛んだ。そう、先日の本を読んだ。勿論、読破はしていない。自慢することでもないが…。
すると共同体感覚という言葉が現れた。簡単に言えば個人個人の一体感が解りやすいかもしれぬ。たぶんそれであっていると思うのだが。
 他者と自分との一体感。良い意味での運命共同体感覚である。それがあると自分の居場所ができる。

 考えてみれば、ワタクシは以前ボランティア活動によく参加していた。仕事を終えてから参加したことも何度かあった。勿論仕事は休まずに。嫌な思いをするときもないではないが、全体的に見て楽しかったしワタクシの居場所もあり、他者の居場所もあった。価値観の違いなどはあったが、そんなことは問題ではなかった。ワタクシが少しでも他人(ひと)のために役立てたのはとても良い感覚であった。仲間にも恵まれたのだと思う。今、同じ事をしようと思っても考えられない。ある意味いい時代であった。

 アドラーの心理学、本当にシンプルである。しかしそれがなかなか実行できない。シンプルなだけに難しいのかもしれない。うまくいっているときには当たり前の事である。一度躓くとなかなか戻ることができない。それはワタクシの力が足りないのかもしれないが…。
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by donkeys-ear | 2014-07-08 00:05 | 心のヤミ