読書

 久しぶりに読書をした。ちょこちょこと本を手に取ってはいるが、読破したのは久しぶりである。




 読書と言っても青空文庫でダウンロードして読んだ。こういった著作権が切れたものを無料で手軽に読めるのは良いと思う。本は意外と置く場所を取られてしまう。ワタクシの部屋も本が沢山ある。雑誌の類は必要な物を除いて処分したが、それでもまだ沢山ある。ただ、電子書籍などではなく紙媒体で読みたいときもある。

 それはともかく、何を読んだかであるが、太宰治の人間失格である。先日の外来でワタクシが自宅で寝てばかりいるので「本でも読んでみたら?」と先生に奨められたのだ。

 これはだいぶ以前にも当blogに書いたと思うのだが、ワタクシにとって読書とは新しい情報や知識を得る手段であり主である。書物を読むことで感動した経験があまりないように思う。かつて本を読んでいて楽しいと感じたことがどれほどあっただろうか?。
 小学校時代、授業で図書室へ行き、好きな本を1冊選んでA4かB5のわら半紙を半分にしたものに感想文を書くというものがあった。ワタクシはその時間が嫌いではなかったが、(学校の)先生から幾度か注意を受けた。というのは、ワタクシが書く文章は感想文になっていないというのである。当初、先生の言っている意味がよくわからなかった。いや、当時は理解できなかっただろう。先生の真意を理解したのは病んでからである。感情をうまく人に伝えられない事に気付いてから。
 ワタクシは本を読んで思ったこと・感じたことを書くのではなく、話の粗筋を書いていたようである。それを先生が指摘したと思うのだが、本人はその違いを理解できなかった。この頃既に感情表現や表出というものが苦手だったのだと思う。それは今日にまで至る。

 (主治医の)先生に「どんな本を読むの?」と尋ねられた。HowTo本が多いと伝えた。すると「小説は読まないの?」と尋ねられた。まだ若かった頃、推理小説にはまったことはあった。三毛猫ホームズシリーズ(赤川次郎さん)や西村京太郎さんのサスペンスものである。誰もが一度は読んだことがあるだろうシャーロック・ホームズシリーズも読んだ。それからしばらく本を読まなくなったが、ある切っ掛けで砂の器を読んで、映画を見てみたくなり、ビデオを購入した。まだ、DVDなんてないVHSの時代である。その後、松本清張さんの作品をいくつか読んだ。でも、記憶に残っているのは「点と線」と「砂の器」くらいである。

 話は大幅にそれたが、人間失格を読んだ。読み終えて思ったことは、ある1人の壮絶ともいえる人生の回顧録。こんな人、本当にいたのだろうか?という疑問も湧いた。それはフィクションとかそう言った意味での疑問ではない。当たり前かもしれぬが、はっきりとした答えが書いてあるわけでもない。どうしても解を求めてしまうのは、曲がりなりにもワタクシが理系出身だからであろうか。

 結果ではなくプロセスを楽しむのが重要なんだろうと思う。それはワタクシがだいぶ前の主治医に言われたことでもある。本を読んで答えを知るのではなく、何を感じ取ることができるのか。感情移入して自分だったらどうするのか。登場人物の誰にもっとも親しみを感じるか?、誰を憎らしいと思うか等々。言い換えれば答えは一つではなく、人それぞれと言うことなんだろう。やはりワタクシにはこの力が弱いのだと思う。なぜならば、読み終えた後ネットで調べてしまったからだ。自分で感じたことに自信を持てないのだ。これでは小説を読む意味がないのである。

 回顧録の主人公である葉蔵は次第に悪い遊びを覚えて最終的には自分の命を短くした。これを第3者から見て人間失格という題名をつけたのだと思う。太宰治の本心はわからぬが。

 葉蔵ほどではないかもしれぬが、ワタクシも人間失格だと思う。誰の役にも、何の役にも立っていない。所詮、他人の役に立とうなど思い上がりかもしれぬ。そんなワタクシは口減らしのために死んだ方が良いのではないか?。人間失格であり生きる価値なしだろう。主観だけではなく客観的にも。ワタクシを求めてくれる人が存在しないのも当然なのだ。
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by donkeys-ear | 2014-05-02 17:05 | 心のヤミ