歪んだ自己愛

ワタクシが精神科のお世話になっている理由の一つだと思う。




 うつ状態、適応障害であるワタクシであるが、その根本にあるのは自己愛の歪みなのだと思う。

 先日の外来で、先生から結構キツイことを言われてしまった。当然、悪意があっての発言ではない(と思う)。まあ、希死念慮、自殺念慮の末に行動してしまった場合の話である。幸か不幸かワタクシは行動化していない。

 この世に生きとし生けるもの、自ら死を選んではいけないのである。と、頭では解っている。しかし、選ばざるを得ないのではないか?と思ってしまう時もある。生きている価値を見出せない時など特に。尤も、常にその価値を見出すことはできない。つまり、いつもココロの中に死んでしまった方が良いのではないかとの思いはある。違いはそれを表出するか否かである。ワタクシの場合は。

 以前とあるカウンセラーに「あなたは自分が死ぬことで親に責任を負わせようとしているのではないか?」と言われたことがある。その時は反論したが、今になってみると「そんなことはない」と言い切ることもできないと思っている。

 ワタクシは自信を持つことなどほとんどない。それでいてプライドは高いところがある。自己肯定できないのに自尊心は高い一面があるのである。これが歪んだ自己愛の意味である。これだけではないと思うが・・・。

 これがたぶんワタクシを苦しめている原因である反面、ワタクシらしさの一部であるようにも思う。この状態を変えることができるのなら苦しみから解放されるのかもしれぬが、ワタクシらしさが無くなってしまうのではないかとの不安も一方ではあるのも事実である。つまらぬプライドなど捨ててしまえば良いのだろうが、ワタクシはつまらぬとはいえそのプライドにすがることで今まで生きてきたのである。そのプライドが無くなってしまう=死と考えてしまう。実はそんなことはないのだろうが。変わることを恐れるというのも歪んでいるのかもしれぬ。本当はプライドというより、頑固といった方が自身ではより実感に近い。

 生きることは尊いことなのだと頭では解るのだが、実感が湧かない。ということは、生きている実感もないのだと思う。まあ、実感している人など世の中ではマイノリティかもしれぬ。以前も書いたが、ほとんどの人は毎日の生活を送ることで精一杯なのかもしれぬ。特にこのご時世は。

 ワタクシも歪んだ自己愛を意識せずに生きることができれば、周囲の人達はともかく自分自身は幸せなのかもしれぬが、現実は意識してしまう。ましてや生き難さを感じているワタクシにとって、意識せざるを得ないとも言えるのである。変えるためにすることの第一番は意識することとも聞いている。変えられるかどうかはまた別の話であるが。
 自分らしく生きると見聞きすることもあるが、それはワタクシにとってかなり難しい、というよりよく解らない。何が自分らしくて何が自分らしくないのか。どう生きることが自分にとってプラスで、どうすることがマイナスなのか解らない。もっと言えば、ワタクシはどう生きていきたいのかすら解らないのである。幸せになりたいというのは簡単であるが、具体的に何が幸せなのかなど解らぬのだ。


 話は変わるが、時折「みんな苦労しているんだよ〜」と言われることがある。ワタクシは苦労していない人など誰一人いないと思うのだが、そんなことを言われてしまうとお前が思っている苦労など、世の中では苦労のうちに入らないんだよと言われているように感じる。つまりはお前は甘いと言われているに等しく感じるのである。口にした人にそんなつもりはないのかもしれぬ。ワタクシの被害妄想かもしれぬし、自分自身で甘えと感じているのかもしれぬ。いずれにしても、愉快ではない。が、現実のワタクシは直ぐに謝ってしまったり卑屈になってしまう。

 それと、ある局面で上司(と限らぬか)から言われる「早く治して(欲しい)」である。これが結構堪えるのである。なぜならば、そう簡単に治るのであれば苦労しないし、一番困っているのは他の誰ならぬこのワタクシなのである。であるから、そう言われると「ああ、解ってもらえないんだな」と落胆してしまうのである。悪気があっての発言ではないと理解はできるが、そう簡単に言って欲しくないと思ってしまう。とはいえ、そう言われてしまうと「ハイ」としか言えない。口が裂けても「ワタクシが一番解っています!」などとは言えぬ。

まあ、これらも認知の歪みなのだろうが。
[PR]
by donkeys-ear | 2013-07-07 21:44 | 心のヤミ