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孤独と孤独感

本日も例によって外来であった。




 ワタクシは本当の孤独というものを知らないのかもしれぬ。感じているのは孤独感であり、本当の孤独とは異なるのではないか?と思うに至った。まあ、前からそんな事を感じてはいたのだが、先日DVDを観て改めて感じたのであった。発展して「本当に孤独なのかもしれぬが、そう感じていないのではないか?」と思ったものの、どうやらそれは間違いであるようだ。なぜならばワタクシは色々な人に支えられたり、相手をしてもらっているからだ。本当に孤独であるならば、相手をしてくれる存在などいないだろう。

 「孤独感というより孤立感に近いのでは?」と先生が仰った。そうなのかもしれぬ。自分から人を寄せ付けないようにしている可能性がある。これも薄々感じている事である。

 社交的な人は他人を寄せ付けるのが得意なのだろう。ワタクシは誠に不得手であり寄せ付ける方法も解らぬし、そもそも寄せ付けたいと思っていない節がある。なぜか?。
 (不特定)多数の人と仲良くなろうとは思えないのである。クローズドの世界の方が好きであり、それは濃い人間関係を望んでいるからだと思う。事実、趣味の面でも現れている。表面的な付き合いは苦手というよりできないに等しい。反面、親密な関係などそう簡単に築けるものでもない。更に知り合う切っ掛けがなければ親密どころか希薄な関係さえ形成不可能である。入り口がないところへ入ろうとしても無理なのと同じである。今のワタクシはこの地点に近い。やはり孤独ではなく孤立がふさわしいのだと思う。

 孤立する理由はいくつかあるだろう。端的に言えば人と関わるのが煩わしい、相手の機嫌を伺わなければならないと言う先入観、また価値観が同じ人などいないと言う決めつけ。
 他にもワタクシという人間をさらけ出す事への恐怖。それは受け入れてもらえるはずがないというこれまた先入観からである。これらは完全に1人称的な考えである。
 それらとは少し異なり一人孤高に生きてみたいと思う気持ちもある。俗世間に流されず。これが自己愛と深く結びついているのだと思う。他人と同じ事をするのが嫌い、他人と同じ物を持っているのが癪に障る。子供の時は同じ物が良かったのに。いつの日からかそう変わった。
 実際、マイナーな物を好む。他人がやらないような事や方法に手をつけてみる。まあ、大概は誰かしら先に手をつけているのだが。しかし身辺にはそのような考えを持つ人は少ない。間違いなく少数派である。この辺りにワタクシの生きる意味や価値観が隠されているのだと思う。
 綺麗な花は誰もが丁寧に扱ってくれるが、名も知らぬ雑草は踏みつけられ時には刈られてしまう。ワタクシはその雑草のように生きてみたいのだと思っているのだろう。いや、できることならそう生きてみたい。

 残念ながらワタクシと言う人間はそこまで孤高で強くもなく、雑草のように踏みつけられる事に耐えられないのだ。志し高くとも本音では綺麗な花が羨ましくてしかたないのだと思う。しかしそれを認めたくない。多くの点で現実を受け入れられないのだと思う。或いは歪曲化して受け入れてきたのだろう。
 無理ならば死を選ぶのも一つと考えた。しかし、それもどうかと考えが変わってきた。まあ、超自我のなせる技かもしれぬ。人は自ら死んではならないのだ。立派な殺人である。
 確かに変わってきたが、孤高でありたいとの理想は未だ残っている。だからこそ孤立するのだろう。

 孤立すると寂しさが襲ってくる。ワタクシの心情としては悲しいかな、一方で自然の摂理として当然の感覚である。寂しさを埋めるため人は出会いや友情を求めるのだろうが、ワタクシは孤高でありたいという気持ちが邪魔をする。特に異性に対して。これをアンビバレントというのだろう。我ながら気付いているのだ。本心に。

 ワタクシの理想を貫くのなら孤高で孤立無援な生き方を選ぶであろう。名も知らぬ人のため犠牲となって死ぬのもまた一つ、人のために死ねるのは最高の人生ではないかと思う時もある。また野垂れ死にするのも一つである。これは我が意思を貫き通した以上、やむを得ない結果として受け入れるのみ。
 しかしそれもワタクシには無理だと段々解ってきた。幸か不幸か俗世間に染まる必要も少なからずあるのではないかと考え方が変わってきた。しかし、どうしたら良いのか解らない。本当に解らない。頭では考えられるがココロでは解らないのである。正直に、素直になれないのだ。

 ワタクシにとって幸せなる概念は俗世間の中にしか存在し得ないものと思っているのかもしれぬ。俗世間を嫌うワタクシに幸せなど解りうるはずもない。そう考えれば一生幸せなど感じずに終えても不思議ではない。幸せになってはならないのも当然である。
 しかしワタクシは実にちっぽけな一人の人間である。人間が幸せに向かわずして良いのだろうか?と考えた際、まさにここ数年であるが、大いに揺れているのである。

 とまあ、半分書き殴りであるが思いついた事を書いた。

 ワタクシは自己愛を肥大化せずには生きてこられなかったのだと思う。人に責任をなすりつけるために書いたわけではない。ワタクシの存在は不幸そのものとどこかで感じているのだと思う。ワタクシさえ生まれなければとの想いが消える日があるのだろうか?。生きていても良いようだと感じられるようにはなったが、生まれなければとの想いは一生抱えていくのだと思う。

「こんな風に思っていたんだな」と笑って話せる日が来て欲しいものである。しかし、そうとは思えない。
by donkeys-ear | 2011-06-21 00:42 | 心のヤミ