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見た目に現れるとは

本日は運動療法へ参加してきた。




 震災後初めて電車に乗った。日曜日だったからなのか、特別ダイヤで運行されていても問題無かった。「途中で停まったらどうしよう?」と内心思っていたのである。が、案ずるより産むが易しであった。もし途中で停まってしまったとしても、それはそれ。死ぬわけではない。街を歩いている時に多少の地震が起こってもワタクシはちょっとやそっとの事で狼狽えるような事は無いとも思っている。これが以前書いた躁的防衛にも繋がっている。

 昼間の車内は節電のため照明は消灯、空調も停止していた。さすがにトンネルのようなところを通過する時には照明を点けていた。夜間は点灯せざるを得ないが、蛍光灯を取り外した箇所も見られた。目撃したのは一カ所だけだったけど。今後、外す箇所を増やすのかもしれぬ。

 これから暑くなる。車内放送でも暑いところでは窓を開けて下さいと言っていた。が、ここ数年の新しい車両は開ける事ができる窓は限られている。コストダウンの影響で、開閉できる窓の数が激減しているのだ。
 コストダウンは理解できるが、窓は開けられるよう設計すべきだったのではないかと思う。これら車両の場合、空調を使わざるを得ないだろう。そうしなければ、通勤通学時間帯など倒れてしまう人が出てきても不思議はない。
 戦後復興時の話、木造車両も多い時代である。鉄道好きの方ならご存知だと思うが、車両火災が発生してしまい、ドアを開けられなかったため、逃げられず多くの方が犠牲になった事件(事故とも言う)がある。窓は一応開けられたのだが、開口面積が非常に狭く、人が脱出するのは不可能だったのである。

 それ以来、ドアコックの表示が義務化されたり、難燃性に変えたりして当時のような事が起きないように車両は製造されてきたし、今でもそう作られているが、今回の電力需要をできるだけ抑えるような事態になってしまうと、窓が開けられない事は非常に疑問視せざるを得ない設計と感じる。まあ、それこそ想定外な事象と言われればそれまででもあるのだが。
考えてみれば特急車両も元々開けられない設計になっている。危険防止のため。でもなあ、通勤型くらいは多くの窓を開閉可能にしておいた方が良いと思うんだけどなあ。
昔はベンチレーターと扇風機しかない車両も多かったんだけどなあ。懐かしいなあ。


 タイトルとはかけ離れた事を書いてしまった。さて、本題。
「今日の抑さんは、いつもと違いますね」とか「変わりましたね!」と療法後に言われた。
セラピストの先生や何度かお会いしている方から言われた。具体的にどう(印象が)変わったのかは言葉に表せないようであったが、ともかく「今までと違うよねえ」との問いかけに何人かの方が首を縦に振っていたので印象も変わったのだろう。

 ワタクシ自身、内面が変わったとは思っていたのだが、見た印象(雰囲気などもあるのかもしれぬ)が変わったと言われた事に少なくない驚きを感じた。
見た目にも変化が現れている事を教えて頂いた1日であった。新鮮な体験である。そういえば、お礼を言い忘れてしまったなあ。

まあ、何が変わったのかであるが、ある意味で覚悟ができたのだと思う。

 この度の大震災で亡くなられた方はかなりの数になってしまった。ご冥福をお祈りします。
生き残っても新たな問題に直面し苦しんでおられる方も数多い。生き残った方の中には想像もしていなかった現実に苦しみ、自ら命を絶ってしまった方もおられる。本当に残念で仕方ない。
(不謹慎かもしれぬが)恐らく追い詰められ、孤立化してしまったのではないだろうか。誰かが耳を傾けていれば防げたのかもしれない。と言っても、みんながみんな余裕があるとは限らない。やり場のない怒りや悲しみを感じる。

 (おこがましいが)被害に遭われた方々に比べ、ワタクシは恵まれた環境である。精神に問題を抱えているものの、衣食住に困っているわけではない。恵まれたと書いたが、別に贅沢三昧というわけではない。ある程度、普通の生活ができていると言う事である。この普通がどれだけ恵まれた事なのかを以前も書いたが痛感しているのである。
 まあ、精神の問題が一番の悩みであるのだが、色々な方にご協力頂きながら自分である程度調べ、壁がある事を知り、どうしたらその壁を乗り越えられるかを今も尚模索し続けている反面、命を失うことなく生きているのも事実である。現実の脅威に晒されてはいない。いや、晒されているのかもしれぬが、被災された方々を思えばたいした問題ではない。

 できる事をやる。これだけである。その背景には自分のためではなく、誰かのためにである。
ワタクシにとって誰かに必要とされる事が自分の存在を認められる事につながっている。以前も書いた。
 これが過剰になってしまうとまた病的になってしまう事も理解している。正しく認識しながら無理のない範囲で何か事を成し遂げる。どんなに小さな事でも良い。これがワタクシの変わった原因にもなっているだろうし、乗り越えなければならない課題である。今までは漠然としていたのが、今回の一件で自覚できたのではないか?と思う。あくまで思うとの範疇だが。

 今は見ず知らずの人のために何かをしたいと言う気持ちなので大丈夫だと思う。実は自己満足の面もあると自覚している。
 これが特定の人に対して働いてしまうとまた問題化するように思う。まあ、たとえそうなったとしても、自覚していれば対処も可能だと思う。と言いつつ、過剰適合しやすく超自我的行動を無意識に行ってしまうワタクシでもあるので簡単にできる事ではないとの認識もしている。
 恋愛面ではこのような事(つまり特定の相手に対して)も求められる要素なのかもしれぬが、当面は無理だろう。高望みは良くない(既に超自我的である)。
相手が必要でもあるし、こればかりはどうなるかサッパリ解らないと言った方が適切かもしれぬ。ひょっとしたら相手が見付かるかもしれぬし。可能性はかなり低いが。

 まあ、少しずつ自らの問題を受け入れられるようになり、行動できるようになってきたのだと思う。根底はギルトなんだろう。
by donkeys-ear | 2011-04-18 01:42 | 心のヤミ