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不安だらけ

昨日は上司同席の外来であった。




 外来における上司の同席は急遽決定したため、その調整をするだけでも結構気を揉んだ。ところがである。なんと次回の外来にも同席したいと本日連絡があった。

 印象として、ワタクシだけ置いてけぼりを食った感じである。周囲(主に職場)では話がどんどん進んでいく。しかし当の本人は本当に仕事へ戻ることができるのか不安で仕方がない。

 昨日の外来で先生は「実際に戻ってみなければ解らないこともあります」と上司へ話してくれた。それは紛れもない事実である。現在は休職中であるためストレスに直面する機会は制限されていると考えて良いだろう。しかし仕事に戻れば常にストレスにさらされるようなもので、その環境下でワタクシの症状に変化をきたさないとは当然ながら断言できない。もっと言ってしまえばワタクシは職場不適合とも言われている。その職場へ戻ろうというのだから問題が起きない確率の方が低いようにも感じる。
 ただし、確率とはあくまで統計学上の話であり、確実に失敗するとも限らない。

と、これを読めば今のワタクシの心境が多少は解せるかもしれぬ。職場関係者が見ていないことを切に願うばかりである。
 例によって話がそれたが、上司(と言うより組織)としては毎日出勤して問題がない状況であることを確認したいようである。職場へ出向いて話を聞いていてもそう感じてきたし、昨日も同じ事を上司が主治医に直接話しただけにすぎず、印象は何ら変わらない。
 先ほどと重なるが、残念ながら「試してみなければ解らない」のである。保証などどこにもない。精神科領域では当たり前だと思うが、そんな事はお構いなしに上の方から問うてくるのだと思う。そう考えれば上司も気の毒である。ちなみに、今の上司は理解ある方達だと思う。それだけに申し訳なさも伴う。結局、最終判断するのはもっと上の人間達なのである。ワタクシを見たこともない人間が書類に基づき判断するのである。まあ、その前に産業医との面接はあるが、どこまで理解して頂けるのか解らない。産業医が可能と認めても、その上の立場の人間がどう判断するのか皆目見当が付かない。

 昨日の外来は慌ただしく終わったと言うのが本音である。三者とも良く解らなかったのではないかとさえ思う。もう少し時間があればこのような印象は持たなかったかもしれぬが、それでもかなりの時間を先生が割いてくれたとワタクシは感じている。ともかく、一定の結論には達した。

 それを受けて職場で話し合いが持たれたようである。そして昨日の結論を遂行するためには事務手続き上、新たな書類が必要となり、提出期限までにあまり猶予が無いようで、次回の外来にも同席する必要があるとの話へ至ったのだと解釈した。確かに逆算するとそうなってしまうのである。プラス、本人に職場へ戻る自信があまり無いとくればパニック寸前でも不思議ではないだろう。パニックというと語弊があるかもしれぬ。いずれにしても追い詰められた感じは否めない。

 まあ、帰宅するまでは次回も同席云々という話は知る由もなかったので目標期限までどのようにして過ごせば良いのか?がテーマであった。
 簡単に言えばウィークデーは毎日決まった時間帯を外で過ごすことである。そのためにデイケアを活用しているのだが、まだ週4日、しかも時間は不完全である。それを週5日にまで増やすことと決めた。同時に時間もできる限り完全な状態へ整える事も決めた。この決断ははっきり言って頑張る・頑張らないの次元ではなく、ある意味で自暴自棄に近い。自己破壊的な面が強く出てきた。確かに、過去を振り返ってみても自己破壊的行動は時折見られた。追い詰められるとエイヤとなってしまうのである。同じエイヤであっても精神的余裕があれば良いのだが、ワタクシは無い。極端に言えば一か八か。生きるか死ぬか。防衛規制の一種なのかもしれぬ。全然自己防衛になっていないのだが…。反動形成だったかもしれぬ。
 焦りも間違いなく作用しているだろう。完璧思考も知らぬ間に働いているのだと思う。不完全な状態で戻ることは望ましくないと思っているに違いない。勿論、無意識下で最も強く思っているのだろう。でも、ここに書いているくらいであるから前意識下かもしれぬ。

 それを知ってか知らずか、帰宅後追い打ちをかけられたのであった。という事でまた明日調整を図らねばならなくなった。

 上司の立場で考えてみれば、書類提出期限までに残された時間が少ないため、なんとかして間に合わせたいと思ってくれている(善意)と理解できる。かみ砕いて申せば、上司にも(状況や背景の違いこそあれど)余裕があまりないのである。
 さらに当の本人にはもっと余裕がないのである。「そんな事ではこの世知辛い世の中生き残っていけない」と言われればその通りであり、理性(自我)では解釈できるが、ココロでは「もうちょっと待って下さいよ」といった状態なんだろうと思う。少なくとも意識下ではそのように解釈をしている。

 超自我的には「なんとしてでも戻らねばならぬ」と考えている。自我も「戻らないとこの先、生きていけない」と自覚をしている。しかしEsは異なっているようである。と言って「どうにかなるさ」との楽観はない。まさに抑圧状態なんだろうと思う。が、ほとんどの人が同じかもしれない。
 本当に好き、仕事が楽しくてしかたない人など、この世の中にどれほどの数存在しているのだろうか。誰しもが生きる糧として不満を抱えながらも仕事をしているのだと思う。ただ、割り切りができている人の方が圧倒的に多いのだとも思う。近頃はそうでもない人が増えてきているようにも思えるが…。まあ、それを言い出したらきりがない。これらは主観的意見である。

 自己破壊的かつ強迫性をも自覚しつつ、やっと精神分析に関する書物を読み終えた。
理由は単純である。残りのページが少なくなってきた事。これを読み終えることで自らの精神分析を行うための準備に一区切り設けたかった事の二つである。
 ただし、ワタクシは専門家ではないため、一回で全ての内容を理解できたとは当然ながら思っていない。あくまで最低限の下地を作っただけである。むしろこれからの方が重要で、この書物に書かれた内容をいかに有効活用して、ワタクシの精神的問題へ迫り、できることならば解決に導くかが問われてくる。まあ、今までも多少なりともそれを行ってきたとの自負もあるが、これから先がもっと重要である。

 原著者によれば人間とは生涯を通して変化し続ける事が可能と書かれている。真の生涯学習といって間違いないだろう。ただしそれに取り組む意欲は絶対的に必要で、この強さに成否はかかっているとも書かれている。
 しかし、先日も書いた通り、ワタクシの場合は知的好奇心も含まれている。それは本来の自己精神分析ではデメリットばかりでメリットは無いらしいのだ。
 とはいえ、ワタクシは素人である。であるからして、独自に問題を解決できると確信はしていない。正直、読み終えるまでできるかもしれぬという自惚れがあった。読後、やはり助言者は必要なのだと理解した(つもり)。自ら分析したことを現主治医へ報告し、道筋を確認、誘導して頂く事になるだろうと思う。

 とりあえず頭の中にあることを書いてみたが、やはりまとまっていないことが露呈した。これが率直な感想である。
by donkeys-ear | 2011-03-09 00:23 | 心のヤミ