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近頃

blog を更新していない理由。単純である。何かしら行動をし、更新作業まで手が回らないのだ。





時間をさかのぼってみると、本日は趣味仲間との集いである。これは普段味わえない事ばかりである。
当たり前でもあって、仲間と過ごすことは対話が発生するのである。共通の趣味であるから話しも盛り上がる。普段の生活からは一線を画す。非・日常な時間である。
休職中であっても、これらの活動があるからこそ、ワタクシの精神が曲がりなりにも保たれている。支えと言っても過言ではない。

昨日はカウンセリングへ行った。内容は今までとは少し違った展開であった。
というのは、つい最近まで、ワタクシが一方的に何かを話すという形態になっていたのだ。
ところがある日、何を話したら良いのか解らなくなり、それ以来思いつくまま気の向くまま、または先方からの問いかけに対し反応する事が増えてきている。話が途切れても少しなら沈黙を認めることができるようになった。
沈黙と言っても、臨床心理士の方はその沈黙の後に口を開くのだ。相手に話しをさせる時間を作ってこなかったとも言えよう。
ようやく対話になってきたんだと思う。一方的ではなく双方が思ったことを口にすること。ここからが本来のカウンセリングになるんだろうなあと思う。今まで自覚できていなかったのだろう。
とにかく、沈黙が異常に怖かったのが少しずつ緩和してきている。

一昨日であるが、これは本日(趣味)のために色々と試行錯誤をした日であった。
まあ、遅かれ早かれそれは取りかかる必要があったのだが、本日までに間に合わせなければというある意味で切羽詰まった状態になったため、やっと行動化した日と言っても良いだろう。

そう、ワタクシは切羽詰まらないとなかなか行動化できないのである。
多くの場合、それらは後悔を伴う。なぜか?。それは切羽詰まった状況であるため、元々想像していた内容まで届かないのだ。7割実現すれば合格点だろうが、実際には「あれも、これも」と後悔することばかりなのである。
よって現実と理想の狭間でまた自己嫌悪に陥る。
まあ、余裕を持って取り組んだからといって想定通りに事が運ぶとは限らない。
ただ、切羽詰まってから行動化すると、最低限(時にはそれ以下)しか実現しないことも多い。
一言で表すなら中途半端で終わるのだ。

中途半端が嫌いなくせに、結果としては毎回中途半端なのである。
中途半端と思わずに、次回の課題として残すことも勿論ある。しかし課題は累積するのであって、やっぱり最後は切羽詰まって云々なのだ。
そういえば子供の頃、父から「おまえは中途半端ばっかりだ」と言われたことを思い出す。
こうやって中途半端をインプリンティングされてきたのかもしれない。しかしそうするより他なかったのだろう。

話しを現実へ戻すと、少なくとも実行できたことを認められれば良いのだろうとも思う。ところが完全癖が邪魔をするのだ。
「とりあえず充分ではないか」と思う反面「ここまでしかできなかった(ダメだなあ)」とも思うワタクシがいる。
そこには現実検討(適応?)能力に問題があるんだろうと思っている。
理想は理想として、現実は現実として受け入れること。両者は密接な関係ではあるが、必ずしも一致しないと言うことを頭では理解しているのだが精神的にそれを許容できないのだろう。
もっと言うならば、理性と欲求間での調整に難があるのだろう。以前も書いたかもしれないが、ほとんどの場合、理性が優先するのである。欲求は虐げられる。そして鬱積するのだろう。

ともかく、一連の予定はこなせた。行動はできたのだ。それを認めてあげるのが今、最も必要なんだろうと思う。

と言うことで、分析学的アプローチにまでは残念ながら至っていない。
by donkeys-ear | 2009-12-07 00:59 | 心のヤミ