甘えることの大切さ

先ほどの記事は主に自宅での「過剰適応」について触れた。
今度はなぜ一人ボッチと感じるのかを考えてみたい。





しばらく前から外来時、先生に言われていることでもある。
それは「甘えられない」こと。

子供の頃から甘えることが許されなかったのだろうとの推察である。
前主治医は「抑さんは自分が楽しむことを禁止しているように見える」と言っていた。
直接関わっているのかは疑問だが、全く関わりが無いとも思えない。

先ほどの記事に関連してくるが、父は家の中では何もしない、キツイ表現を用いれば役に立たない人である。たまの休みはゴロゴロしているだけ。

一般的に家庭とは主人(子供から見れば父)を中心として諸々の問題を共に解決していくのだと思う。
しかし、我が家ではその機能がなされていなかった。父はひたすら稼ぐだけで、家の中のことには介入しない人間であった。介入することもあるが、それは否定することのみであった。
母が何か持ちかけても頼ることが難しかったのだと思う。否定されるのを解っていて話しをするのも辛いし、喧嘩になるだけである。母はかなり我慢したのだろう。
子は鎹(かすがい)と人は言う。しかし、その子供達も実際には辛いのである。

ワタクシは長男である。生まれた直後は当然子供として扱われたと思われる。これについては間違いなかろう。しかし成長するにつれ、弟が誕生する前後から、母は確実にワタクシへ代理夫・代理父としての役割を自然と投影し、幸か不幸かワタクシが演じてしまったのだろう。さらに兄としてのアイデンティティをも求めに加わったのだろう。
子供でありながら主人として、父としてそして(これは子供としてであるが)兄としての要素を求められたのだから今となってみれば辛くないといえば真っ赤な嘘である。ただ、当時はそのような知識も当然のごとく持っていないし、ワタクシもそれを受け入れなければ生きていけないと感じたのだろう。

巷で良く耳にするのは長男や長女は次男や次女等に親を奪われた感覚をどこかしら持つと言うこと。
ワタクシの場合はどうだったのであろうか?。正直なところあまり記憶にない。それは無意識の領域に抑圧(意識して行ったのであれば抑制?)しているだけなのかもしれない。
しかし「お兄ちゃんなんだから」と言われたことはある。
まあ「お兄ちゃん(お姉ちゃん)なんだからしっかりしなさい」というのはどこの家庭でもある話だろう。
問題は我が家の場合何か相違点があったのか?。やはり父の存在が薄かったことは大きく影響しているだろう。

弟が生まれる前、ワタクシは両親を独占できる時代だったはずである。と言って父に甘えることができた記憶はほとんど無い。母に甘えた記憶もそれほど多くない。

幼稚園へ上がる前だと思うのだが、子供ながらに思ったことがある。
それは普段、父が遊びに連れて行ってくれないことを母が不憫に思っていたのだろう。二人でとある遊園地へ遊びに行った。そこで観覧車に乗り風景を見下ろしていたときである。母に対して「申し訳なさ」を感じた。不憫と思ってくれた母に対しワタクシが母こそ不憫と感じてしまったのだ。当時は楽しいとも感じたのかもしれない。しかし今となっては申し訳なさしか記憶にない。ここが後に「生まれてきてはならなかったのだ」との思いに至る切っ掛けかもしれない。ワタクシが存在していなければ、遊園地へ連れて行く必要も無かったと思うからである。
ワタクシの遊園地嫌いは当時の記憶が刺激されるからかもしれない。
その前後から甘えたい気持ちより(母が)可哀想との気持ちが強かった可能性はある。だからこそ甘えられたと思う記憶がそれほど思い当たらないのかもしれない。むしろ甘えてはいけないと思っていたかもしれない。

弟が生まれてからは家族内で中心的存在は彼になる。ワタクシが幼稚園時代に生まれたのだった。

幼稚園は送迎バスで通園していた。
帰りの時、友人のお母さん達はバスの止まる場所へ必ず迎えにきてくれていたが、ワタクシは何度か迎えにきてもらえないことがあった。よって一人で自宅へ帰る。鍵っ子だったわけではない。
友人達は親子で自宅へ向かう。ワタクシだけ一人帰宅するしかないのだ。泣きながら帰ったときもあったような気がする。
朝、一言「今日は迎えに行けないよ」と言ってくれたのなら、話は違ったかもしれない。実際、そのようなときもあったのだろうが思い出せない。それは記憶の中で整理され当然の行為として受け入れているのだろう。

幼稚園へ行くときも数度これらの経験をした。その時は勿論「どうしても手が離せないから一人で行ってきてね」のようなこと言われたのだろう。自分一人でバスの止まる場所へ行くことになる。
どちらにしても、ものすごく寂しくそして不安を感じたものだ。母曰く「手がかからない子供だった」とはこの様なことも含めての発言なんだろう。実際には毎朝通園拒否をし、それは小学校・中学校・高校まで形を変え続いていたのだが。

弟が母や父に甘えている姿を見ながら、ワタクシは一人黙々と空想にふけったり、オモチャで遊んだり、テレビを見たりしていたのだと思う。正直に申せば自分自身に対する記憶があまりないのである。怒られていたことは良く覚えているが、それ以外は自分の事はあまり覚えていない。
とは言いながら、ワタクシの子供時代の記憶には、父と弟が仲良くしていた記憶がありありと残っている。野球観戦など二人で何度か行っていたし、車で出かけるときは父の隣に必ず弟が乗ったものだ。であるから弟の方がワタクシより父に親和性を持っていても不思議ではないのだが、なぜか逆転しているのが実態である。親和性と言うよりワタクシの方が拒絶度が低いと言うべきかもしれない。
少し話が反れたが、次第に機械等へ興味を持ち始め、オモチャをはじめとして色々なものを分解しては組み立てたりしていた。
今から考えるとこれらは自慰行為と呼んでも差し支えないのかもしれない。ともかく、それによってワタクシは寂しさや不安を紛らわしていたのだろう。今日の機械好きはそのあたりも影響しているのだろう。

それを知ってか知らずか、オモチャは結構買ってもらった。この点に関しては甘やかされたとも思える。逆に言えば、ワタクシにとってオモチャを買い与えられることのみが甘えることを許された行為と感じていたのかもしれない。
しかし購入時の一瞬、いや至るまでは甘えることができたとしても、その瞬間を過ぎれば以前と同じく一人で遊ぶだけであり、知らず知らずに孤独感を強めた時期かもしれない。モノを購入してもらう以外には甘えることが許されないとすり込まれていったのだろう。

小学校に上がると友人もできる。良く近所の友達と遊んだものだ。
しかし夕方は怖かった。なぜなら仲良く遊んでいた友人達と別れなければならないから。また自宅で一人遊ばねばならないとの思いが働いていたのかもしれない。

これは勝手な想像だが、父も母も外向的と言うより内向的な人間だと思う。
それもあってワタクシは内向的に育ったとも考えられる。人見知りは未だに強い。
これにより外へ向かうことができず自分一人で抱え込むとの思いが形成されたのかもしれない。

話の内容が不明確になってしまった。
タイトル通り「甘えること」は大切なのである。
子供の頃、両親に甘えるのは重要である。そこでうまく甘えられた人と甘えられなかった人ではその後の人生が大きく変わるだろう。
かといって甘えすぎは良くないのも当然である。大人になってからも甘え続ける人間がいるが、それらの人も幼少時、上手に甘えられなかったのだと思う。或いは甘えることが許されなかったのだろう。
躾は過剰でも不足でもその子の人生を大きく左右する。
今の子供達、ワタクシはそのあたりが非常に心配なのだ。良いことは褒め、間違ったことは叱る。当然のことができていないように感じる。モンスターペアレントなどはっきり言って子供が子供を育てているとしか思えない。親に自覚がないのだろう。そんな親に育てられた子供は将来心配である。

甘えの体験をしっかりできた人は社会に出ても上手に甘えたり甘えられたりすることができる。
それは他人の厚意を素直に受け入れられたり、過剰と感じた場合コントロールすることが可能となる。
give and take がうまくできる人。それが適切に甘えられた人なんだろうと思う。
give しかできない、take ばかりを求める人は甘え体験が不十分であったのだろうと思う。
ワタクシがその典型例である。

「私もそうかも?」と思う方も居られるかと思う。
本当にうまく甘えられなかったかどうか、ワタクシからは何とも言えない。専門家ではないし、ワタクシの一意見でしかない。
けれど、自覚していれば、さらに適切な代償行為(専門用語では昇華)を見つけられれば、楽しい人生を送ることはできると思う。
過去を悲観しても仕方がない。それを受け入れて成長するのみである。

ワタクシの場合、現在模索中であり、なかなかうまく進まないと言うだけの話。
一人ボッチと感じるのはこれらの背景があるからではないかと仮説を立てているだけのことである。それをうまく昇華するにはココロの奥深くに眠る甘えたい欲求を満たすことである。
以前書いた「好きな楽曲シリーズ」にある「本当は泣きたいのに」。あの歌を聴くと感じるものがあるのは、甘えられない自分に気付いているからだと思う。しかし、実際にはどうやって甘えれば良いのか、また甘えられる相手を見つけ出せるのか?が問題である。
手っ取り早い方法として彼女を作ることが考えられる。しかし、多くの場合女性が男性に甘えたいと思っているであろう。男性が女性に甘えること。それを受け入れてくれる女性が果たして存在しているのか?。そしてワタクシ自身それを受け入れられることができるのか?。深い深い問題なのである。

最後に弟の事についてもう一度触れよう。
彼も成長段階で何かしら問題を抱えている。それに具体的に気付いてきているようである。ただ父への拒絶感があまりにも強いため、バイアスがかかっているのではないかと思う。
感情論ではなく事実を受け入れ、修正する事ができれば楽しい人生を送れるだろう。ワタクシより若いので、時間もチャンスもより多く残っているだろう。
でも、今のワタクシには何もしてあげることができない。自分のことで精一杯である。
弟に対しても申し訳なく思うのである。こんな兄で悪かったと。
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by donkeys-ear | 2009-11-18 00:07 | 心のヤミ