心境の変化

なんだろう。私は仏門に入った方が良いのかもしれない。
そう思えることがあった。




ワタクシは全然知らなかったのだが、若い人に神社仏閣巡りみたいなのが流行っているんだそうだ。

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まあ、ブームかブームでないかはともかく、宮崎氏の意見はワタクシの思っていることと大筋一致している。
偶然この動画を見たのだが、同じようなことを考える人も居るのだなあと思わず笑ってしまった。
動画で最後の方に話題となっている「『生きる意味』を求めるのではなく『死なない努力(工夫)』が重要では?」との見解は「仰るとおり!」とエールを送りたくなるほどである。

個人的な宗教観を書き出すとイメージでしか無く説得力に欠けるので控えるとしよう。
実際、宗教を学んだことはない。個人的で曖昧な概念から導き出したことが偶然宮崎氏の発言と一致しただけのこと。
死なない努力は必要なんだろうと思う。人生は日々修行なのだ。

仏門へ入った方が良いのかも?など急に書いた理由、単に「悟りを開いてみたらどうなんだろう?」と思ったのだ。
悟りを開いてしまったら人生の面白味は半減どころか無くなってしまうかもしれない。
そして人は悟りなど開けない。もし開くことができるとしたら、死を目前にした時にできることなんだろうと思う。
であるからワタクシには少なくとも今、悟りを開くことはできない。
開けないのだが開く方向へ進んでいるように思うし、そう進むことがワタクシにとって、ある意味人としての生き方なのかもしれない。

ワタクシは過去何人かに「何でそんなに達観視できるのか?」のようなことを言われたことがある。
はっきり言おう。達観などしていない。まあ、そのようなことを言われると悪い気分はしないのも確かではある。
事実をごく客観的に見ていくと、そのような結論を見いだすだけなのだ。
自分がその立場なら?、相手の立場で考えたら?と思うと、自ずと答えのようなものが見えてくる。自分にとって都合が良くとも悪くとも、その答えのようなものを「ワタクシはそう思う」のである。ごくまれにそれらを発言すると「達観している」とか「悟りの境地」とか言われるのだが、そんなに高尚なことをしているつもりは無い。ワタクシに言わせれば冷静に考えれば誰だってそう思うんじゃないの?である。
ちなみに、答えのようなものであって答えとは限らない。そもそも答えなど無いのかもしれない。

「あなたとは違うんです」と発言して物議を醸した元首相。少し親近感を持っていた。
まあ、あの方は本当に客観視した上での発言か、ブレーンの意見を聞いてそうするのが良いのだと判断したのか、はたまたその他諸々あるのか。考えれば考えるほど謎に満ちるし、他人様のことを考える余裕など無いのが本音である。

ワタクシの場合、それは性格(人格)の歪みを発端として自分のことでもまるで他人事のように扱うことがある。この思考が達観論者に見えるのかもしれない。
ただ、これが非常に問題なのも認識しているつもりである。まともな生活ができていない理由の一つだろう。
おそらく、それは主治医に言われた超自我が強いと言う事にも関係していると思うが、理性と感情がうまく相関していないんだろうと思う。

物事を判断する場合、事実に基づいて判断する時と「こうあって欲しい・これは嫌だ」という感情による判断があると思う。
健康な精神の持ち主であればこのバランスがとれており、事実判断と感情判断をうまく使い分けたり融合したりできるんだと思う。
ところがワタクシの場合、感情判断は事実判断に勝てない。事実判断に絶対服従なのだ。
単純な例を挙げるとあの人はどうやらワタクシに対して興味を持っているようだと感じても、理性が「それは事実なのか?、そんな事実は確認できない」と一蹴してしまうのだ。
仮に相手が好意を持ってくれていたとしても、明らかにそうであると確信を持つに至らなければ「事実に反する」と勝手に判断(まあ、これは主観なんだろうが…)してしまい、そのまま何もなかったかのように装うのである。内心気にしつつも。
それこそ相手が口にでもしない限り、可能性は否定しないが肯定もできないのである。感情論で言えば肯定したい。しかし事実判断上肯定できなければ、ワタクシは肯定することが許されないのだ。
そこには自分が男としての自信を持てないことも関係している。醜形恐怖に自己臭恐怖。それ以外にも何かしらコンプレックスは持っている。何しろコンプレックスの固まりなのだ。
さらに羞恥心が異常に強いことも関係しているだろう。というのは「あなた何様のつもり?」、「何勘違いしてんのコノ人」と思われることへの恐怖。
他には猜疑心が強いことも挙げられるように思う。それは相手がこちらに好意を向けてくれていたとしても、信じることができないのだ。信じたくとも信じられない。魅力のある女性であればあるほど「こんな女性が私に好意を向けてくれるなどあり得ない」と思ってしまう。

本来なら勘違い野郎と思われても「な〜んだ違ったの?」などと軽く返して次の人を探すのだろうが、現状下ではできそうもない。
こちらが好意を持った場合でももう二度と会う機会は無いと覚悟をしなければ口にはできない。それは諦めの境地での発言とも言える。後悔するより言うだけ言おう。言って断られたら潔く諦めよう。こんな事を考えているんだと思う。実際には潔くなかったりもする。
もう前提から間違っている。「お付き合いしたいので、もしよろしければお考え頂けませんでしょうか?」ではなく「(お付き合いは無理だと思いますが)あなたのことが好きなのです!」。そこまで追い詰められないと口にできないのである。

はっきり言ってこんな男は情けない!!!。みっともない!!!。度胸が無いとも言えるかもしれない。風上は当たり前として風下にもおいてくれないだろう。
であるから、ワタクシに好意を抱く女性を見つけるのは広大な砂漠に落としたダイヤモンドの一片を見つける以上に困難を極めると思っている。
まあ、ワタクシに好意を抱いて頂く努力をしているかと問われると返す言葉もない。

ということで、ワタクシには恋愛面以外でも抑圧傾向が強い。
人並みの幸せを望むことは土台無理なのかもしれないと感じているのである。
もしそうであるのならば、仏門の戸をたたくのがワタクシにとって最も価値ある人生なのかもしれない。

でも、それを肯定してしまったら、抑圧からの解放は頓挫し促進する行為でしかない。この blog の目標と反するのだ。

最後の最後まで仏門を選択しない努力が必要だと自分に言い聞かせている。
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by donkeys-ear | 2009-10-04 01:54 | 心のヤミ