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近頃「いいかげん」

 なんだかそうなりつつあるような気がする。




 一言でいい加減と表しても受け取り方は二つあると思う。
一つは良い塩梅であり、ほどほど・適度と言ったところだろう。
もう一つ、これが俗に使われる用法で、中途半端とかテキトーだろうと思う。
念のため字引で調べたら「好い加減」と書くんだそうな。一つお利口になったかも。

 で、一体ワタクシの「好い加減」はどちらなのか?と問われれば、なかなか判別に難しい。
と言うのも、そもそもワタクシは全てにおいて中途半端だと思っている。誰になんと言われようが無条件にそう思ってしまうのである。
 完璧でありたいとの思いと現実には、見えないけれどとてつもない程の大きなギャップがあり、やることなすこと「結果は常に中途半端ではないか!」と感じるのである。これは主観的判断で、端から見れば完璧思考と受け取れるのだろう。つまり主観と客観の評価は相反しているのだ。その意味で良くも悪くも「どこが中途半端なんだ!」と指摘される事もないではない。ところが自身では中途半端と感じてしまうのである。

 最近のワタクシは、この辺りのタガが緩んできたようだ。
完璧などそもそも無理なのだと開き直れてきたのだと思う。極々些細な変化であるが。
客観的視点で考えてみるならば、完璧を目指すのではなく、良い塩梅になってきたとの事になると思う。が、自身では中途半端なイメージがつきまとっているので、初めに書いた二つの意味が重なってしまうのである。結果、どちらともつかないが答えになるのだろう。

 以前のワタクシなら、重なってしまうことに対し違和感や疑問を感じた。ところが超自我と Es の関係が微妙に揺れ動き「そんなこと、どっちでもイイんじゃないの?」と変化してきたように感じる。自我が Es の意見に耳を傾け始めたのだろう。ようやく自我が自我らしく、過抑制・過抑圧を緩めながら機能し始めたのかもしれない。

 ワタクシは中途半端ではないかもしれないが、デタラメでテキトーでもないと思うことができるようになってきたのだろう。まあ、グレーゾーンと言ってしまえばそれまで。しかしそこに身を置いても良いのかもしれないと思い始めたのではないか?と感じる。

 本日はデイケアへ行く日だったのだが、いい加減が作用して行かなかった。出発時間が予定よりかなり遅れたので「今日は止め」と判断した。その代わりと言っては何だが外出はした。これで良いのではないだろうか?と自分でも思う。
 明らかに予定通りではなかったが、出かけたことに間違いはない。何もデイケアへ行くことだけが目標・目的ではない。
 出かける事、これが一番重要なんだろう。主治医も職場の上司も「家にこもるのではなく外で楽しいコトをやればいいんじゃないの?」と、スタンスは一致している。不思議と。

 やはり行動する事が大切で、結果はともかくプロセスをどう楽しむかがテーマなんだろうと思う。
まあ、こんな事を書いているようでは、まだまだなんだろうなあとも思う。何回も同じ事書いているし。って考えるのが超自我的ってことか?。無意識とは恐ろしい。
by donkeys-ear | 2010-07-15 00:50 | 心のヤミ