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メールで思うこと

 今日は(も?)普段気にはなっているのだがどうでも良いことなどに触れてみようと思う。




 ワタクシが社会人に成り立ての頃、携帯電話が普及し始めた。第2次ブームとか言われたと思う。
それまでは仕事上必要な方や裕福な方たちしか持てなかった。その時代はショルダーフォンだの自動車電話だのがとても珍しかった。通話料も高かった。持てる人が限られていたのである。それを過ぎて少しずつ台数が増え始めた時代が社会に出た時であり、やや遅れて携帯電話の導入をした時期でもある。携帯電話がアナログからデジタルに移行した前後でもあったように思う。

 本来携帯電話とは文字通り電話でありそれ以上でもそれ以下でもなかった。が、色々なサービスが付与され、今では電話というより携帯端末と呼んだ方が相応しいのではないかと思うくらい多機能になっている。技術革新が進んだからこそ今のような携帯電話が生まれたのだと思う。
 それは確かに便利である。ただ、なくても生きていくことは可能である。まあ、携帯(電話)依存症との言葉があるくらいであるから、なくては困ると言う方も居られるのだろう。やはり生まれたときに身近な存在か、とても考えられないような代物だったかによって意識上、大きな違いがあるだろう。

 ここまでが前置きである。

 携帯電話にはメール機能がある。勿論そういった契約をしないと使えない。ただ、今の時代はそのサービスを拒否する人も考えにくい。で、このメールがコミュニケーションツールとして市民権を得ているのだろう。善し悪しは別である。

 たまに若い人たちからメールを頂戴することがある。学生さんであったり社会人になったばかりの方である。まあ、彼らとの接点はほぼなくなったので、今後こういった仲間が増える可能性は低い。ワタクシ自身に余裕がないからである。
脱線した。若い人たちに共通しているように感じる事として、多くの場合メールのタイトルがない。無題で送られてくる。
 ここに強く疑問を感じるのである。無題ってのはどういう事なのか。と言うよりタイトルを付けることが面倒だと感じているのだろうか?。
このあたりにジェネレーションギャップや国民性の変容がうかがい知れる気がするのである。

 まあ、ワタクシが昔気質で旧式な人間であるとの証明になるのかもしれない。
それにしても無題ってのはいかがなものか?と毎回思う。だいたいタイトルを付けない人はほぼ決まっている。つける人は必ずつけて送ってくるし、つけない人は必ずタイトルを付けないで送ってくる。尤もつけるといっても " re (res) ○○○ " であることも少なくない。
たったこれだけのことではあるが、こんなところにも人間性や意識が表れてくると思う。

 タイトルを付けない人はそれだけ身近なツールとして利用していると言い換えることもできるのだろう。
若い人たちにとってはタイトルを入力しないのが当たり前と思っている可能性はある。タイトルを付ける必要性を感じないとでも言えようか。まさかパケットのサイズを抑えるためとは思えない。
 タイトルを見ればなんとなくメールの内容を把握できる事も多いのである。把握とまでは言い過ぎかもしれないが、少なくともどのような用件での連絡かは掴める時がある。
 メールの送信内容を予め意識していれば、趣旨に添ったタイトルを付与することも難しくない。恐らく無題で送信する方々は、メールを送ることが第一で、内容は第二でありそれほど重要ではない文章(文字の羅列?)、或いはそもそもタイトルを付けることに対してそれほど考えていないのだろう。だからこそ身近なツールだと考えることも可能である。深く意識せず、パッと送ることができるのであろう。ここで一つの要素として男女間での意識差もあげられると思うがそこまでは考えない。

 ワタクシのような人間はどうしてもタイトルを意識してしまう。メールを書いたら送信前に必ず内容を読み返すし、何を伝えたいのかをタイトルにして送信しているように思う。最も重要なポイントをタイトルとして付与するのである。必ずしもではないが。

 と、まあ、どうでも良いような事を日頃感じるのである。それだけ歳を重ねたって事なのかもしれないなあ。

と、ここで終わってしまえばそれまでであるが、連想を膨らませる事で内省へと発展する

 ワタクシはこの記事の中でどうでも良いを何度か繰り返している。実はここに大きな矛盾がある。本当にどうでも良いと思っているのであれば、または考えているのであれば繰り返す必要はない。繰り返しているのはそこに執着していることを暗に示しているのである。
 ここで書いているどうでも良いの正しい意味は客観的態度としてどうでも良いのであって、主観的態度ではどうでも良いとは考えていないのである。喩えれば、ヒトから「そんな事どうだってイイじゃん」と言われれば「それもそうだね〜」と口にはするのだが、内心「やっぱりそうは思えないなあ」と感じてしまうのである。

ではどうしてそう思ってしまうのか?を考えてみる。それは執着せざるを得なかったからであろう。普段からそのような態度で臨んでいると言えるだろう。つまりここでも転移が働いているのだと思う。

 それはどうして?と考えてみる。ここで思うのは相手から敵視・冷遇されないよう常に意識してきたからであろう。言葉というのは本当に難しいもので、たった一文字異なるだけでも相手の受け取り方が大きく変わるのである。そこに十二分に気を配る必要があったのだ。相手の気分を害さないよう、常に気にしてきたのである。それ故、ワタクシの中ではメールにタイトルを付ける・付けないは大きな問題なのである。
 相手に間違った解釈をされないためにもタイトルを付けることが重要なのだ。ただ、ワタクシの中だけの問題でもあり、この価値観を強制するつもりもない。強制すれば意図と相反する。

 で、なぜそこまで他人の顔色をうかがう必要があったのか?は、そうすることでしかワタクシは生きてこられなかった、養ってもらえなかった、認めてもらえなかったと考えるのが妥当かと思う。実際に、客観的にそれらはあったのかは定かではない。が、少なくともそう感じていたのは間違いないと思う。そして、これらが全ての対人関係に現れるのである。そりゃそうだ。根幹がそうなのだから。

 とまあ、ちょっと意識に残ったことを考えてみることで、自分の中にある問題をほんのちょっとでも見つめることは可能である。
 あとはこの事実(かどうかは自信なし)をどのように受け入れ、修正するかである。修正は不可だとしても、傾向を把握することでこれからの人生を変えていく事は可能だと思う。

 最後に、雑感から分析的な内容へ変わってしまったなあ。
by donkeys-ear | 2010-06-06 22:19 | 雑感