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相も変わらず

やる気なしである。たばこを買いに出かけた以外、特に何もしていない。




本来ならデイケアへ行く曜日であった。が、なんだか行く気にならない。

やらねばならない事、やった方が良い事などは頭に浮かぶ。しかし行動化できない。
ワタクシの深層心理ではやらない方が良いと思っているのだろうか?。それとも本当にやる気にならないだけなのか?。
やる気にならないのであれば、いつかはやる気になるのであろうか?。
自分でも全く解らない。そこには無意識に抑圧・抑制が働いているのかもしれない。
仮に働いていたとすると、それは苦い経験があるからだろうと思う。その経験は何だったのか?。「やらなきゃ良かった」と痛烈に感じた体験は何だったのだろう?。

ワタクシは子供時代に「何をやっても中途半端だな」と父に言われた事を記憶している。それは繰り返し言われていた事でもある。
ワタクシは中途半端が嫌いである。恐らく父の発言から形成されたのだろう。
やるならやる・やらないならやらないという二極化の考え方を持っている。
中途半端よりやらない事を好み、やるのなら完璧を目指すのである。しかし、完璧などできようはずもなく、結果はいつも中途半端だったと思うのである。ワタクシの中では。

客観的には完璧に近いモノであっても、ワタクシにとってはほとんど意味をなさない。
10点でも99点でもあまり価値は変わらないのだ。あくまで100点でなければ満足できない。ほんのちょっとでも不満があると、自身で重箱の隅を突っついてしまう。「ああ、ここがダメだった」とか。
そして「それ(中途半端)だったらやらない方が良いのでは?」と思ってしまうのである。
であるから、準備だけして何も手をつけていない状態のモノはいくつもある。構想だけ練って事実上終わってしまうのだ。
もちろん、この状態も好ましくないと自分で思っている。「あれをやらねば、これもやらねば」と常に思っている。それはストレスに繋がる事も多い。それこそ初めから考えなければ良いのだが…。言ってみればこの状態も中途半端なのである。

一方で「準備をしておけばいつでもできる」と考えている面もある。
ひょっとすると、準備するという行為にある程度の満足をしているのかもしれない。加えて「やればできる」と思い込んでいる面もある。
でも、やらない以上、いっこうに先へ進まないのは誰の目にも明らかである。

これら思考の中に妥協することを見いだせれば話しは変わるんだろうと思っている。
誤差といっても良いのかもしれない。許容誤差:±0%は実現不可である。
いかなる精密機器であっても誤差はつきものであり、逆に言えばある程度の遊び、クリアランス、余裕がなければうまく機能しない。しかし今のワタクシはその状態なのだ。
許容誤差を±0.1%だけでも認められるようになれば、もっと楽に生きられるのかもしれない。

以前も似たような事を書いた気がするなあ。
by donkeys-ear | 2010-03-25 00:18 | 心のヤミ